第一章 カレーを愛するもの

会社員のAは、人当たりの良さと明るさで社内の人気者だった。
老若男女を問わず、誰からも親しまれ、愛されていた。
Aと一緒に仕事をするのが、みんな楽しみだった。

ただ、Aはどれほど親しい人とも決してランチに一緒に行くことは無かった。
「誰にだって一人になりたい時もあるさ」と、周囲もそう受け取り、気に留める者もいなかった。

Aは無類のカレー好きだった。
物心ついた頃から、ほぼ毎日カレーを食べてきた。
それが故、辛い記憶もあるようで…
幼い頃、毎日嬉しそうにカレーを食べていたところ、好きな子から「気持ち悪い」と呟かれた事があった。
大きなショックを受け、その日を境に、Aはカレーは「独りで食べるものと」決めたのだった。

大人になった今でも、カレーだけは、決して誰とも一緒に食べることはなく、独りである。

Aの中では、「独りでカレーを食べるのは素晴らしい事。」
そう感じている。

独りであれば、自分のペースで食事をすることが出来る。
そう。カレーに集中することが出来るのだ。
誰にも邪魔されず、大好きなカレーに集中することができ、
自分の体中を暖かくて美味しいカレーで満たし、
さらには、自身の心もカレーの素晴らしさで満たすことが出来るのだ。

そして、今日も独りでランチへ。
いつも通り、流れるように席に着きカレーを頼む。

運ばれてくるカレー。

Aは目の前に置かれたカレーをじっと見つめる。
湯気がゆらりと立ち上り、その中に広がるスパイスの香りが、鼻をくすぐった。
クローブの甘さとカルダモンの爽やかな刺激が入り混じり、まるで温かい抱擁のように心を包み込む。
Aは静かにスプーンをすくい、ルーの重みを確かめながら口へと運ぶ。
とろりとしたルーが舌にのった瞬間、濃厚な旨味が広がる。
牛肉のコク、玉ねぎの甘さ、スパイスの深みが複雑に絡み合いながら、じわりと喉奥へと流れていく。
ほんのりとした辛さが後を引き、次のひと口へと誘う。Aは目を閉じ、味覚の世界に没入する。
ライスと絡んだルーは、ふわりとした米の優しい食感と絶妙に調和する。
噛み締めるたび、口の中で滑らかさとほぐれる食感が交互に広がり、味の奥行きが深まっていく。
スプーンを口へ運ぶたびに、Aの鼓動は静かになり、周囲の喧騒が遠のいていく。

「この瞬間だけは、何も邪魔されない。カレーがすべてだ。」

Aは一人静かにカレーを食べ続けた。店の中では、誰かが談笑し、誰かが食事を楽しんでいる。

その笑い声とともに響く食器の音。けれど、Aにはその音が遠く感じられた。ここにはカレーしかない。
世界のすべては、この皿の上にある。
ひと口、またひと口。Aの心は、カレーに溶け込んでいく。

つかの間の至福の時間…突然、現実に引き戻される。
昼休みの終わりが迫ってきているのだ。
その時、別に聞き耳を立てていたわけではないが、
少し離れたテーブルから会話が聞こえてきた。

「ね?ここのカレー美味しいでしょ?」

「ホントだ!!とても美味しい!!!」

「連れてきてくれてありがとね!!!」

よくある日常の何気ない会話だ。

Aは思った。

「あぁ…そうだなぁ。
 カレーの美味しさ、素晴らしさをみんなに教えてあげたいな。
 みんな喜んでくれるかもしれないな。
 そして、みんながカレー好きになってくれたら…
 嬉しいなぁ」

誰かをランチ(カレー)に誘ってみよう。Aは強く思った。

翌日…

Aは場の人たちをランチに誘おうと思った。

Aは会社で周囲を見回す。
声をかけようとする——けれど、言葉が喉に詰まる。

「……やっぱり、無理だ。誘えない。
 嫌われたらどうしよう……また、あの時みたいに……」

頭の中に、幼い日の傷がよみがえる。
自分の気持ちとは裏腹に、Aの足はすくみ、声は出なかった。
自分の気持ちとは裏腹に、行動に移せない自分が情けなく思えてきた。
それからAは、少しずつ変わっていった。
会社に行っても以前のような明るいキャラクターとは間反対…。
表情は暗く、自ら口を開くことが無くなってしまった。
同僚たちも心配になり、色々声をかけたりしてくれたが、Aには届かなかった。

帰宅したAは…
いつも通り、独りでカレーを食べる。

そして呟く…

「カレーに飲まれたい」

しばらく沈黙した後、つづけて…

「大好きなカレーに飲まれてしまえば、
 自分の心も、体も、すべて満たされるはずだ…
 そうすれば、この…この訳のわからない気持ちも、きっと吹き飛ぶはず…」

Aは呟いていた…

それからというもの、Aはしばしば会社を休むようになった。

0 件のコメント:

コメントを投稿