2025年2月3日月曜日

2月2日 日記

ノートを手放してから、もう二、三年が経つ。
最初は少しの違和感があった。
何かを書き留めたい衝動に駆られることもあったが、
時が経つにつれ、その思いも薄れていった。
振り返ってみても、特に支障はなかったな、というのが正直な感想だ。

ただ、ブログを書く習慣だけは続けた。
とはいえ、毎日書こうと思っても、実際に書かない日もある。
書こうとしても手が動かない日もあるし、そもそも書くことが思いつかない日もある。

それでも、時折ふとした瞬間に過去を遡りたくなることがある。

そんなとき、記録がない日のことを考える。
何もなかったから書かなかったのか、
それとも、何かあったけれど書きたくなかったのか。
あるいは単に面倒くさくて書かなかったのか…。

記録がない過去を想像する。
それはある種、謎解きのようでもある。
頭の中に残る断片的な記憶を拾い集め、失われた時間を埋めようとする。
すると、人間の脳みそは実に都合よく働くことに気がつく。

途切れる前後の記録を読めば、おぼろげながらも当時の出来事が浮かび上がる。
しかし、それは完全に正確な記憶ではない。
思い出の中には、いつの間にか補正がかかり、
美しくなったり、逆に色褪せたりしている部分もあるのだ。

それでも、こうして記録を残すことには意味があるのだろう。
たとえ曖昧なものでも、思い出を繋ぎ留める手がかりとなる。
過去の自分を辿ることは、今の自分を知る手がかりでもあるのだから。

そして気づく。当時の自分には見えなかったものが、今なら見えること。
少しだけ成長した自分がいること。
時には、自分の未熟さに顔を覆いたくなることもあるけれど、
それもまた、大切な発見なのだ。

そうやって、時々振り返ることができるからこそ、日々の記録は面白い。
そして、これから先も、自分の足跡をどこかに残していこうと思う。

******************************************************

このブログに投稿する文章を取り合えず書いていました。
「ある程度書いたらかっこいい文章にするんだぜっ!!!」って、思いながら。

ただ、締めくくりをどうしたものか…。

思い浮かばなかった(笑)

致命的なので、書いた文章を無かったことにしようかな?
と、思いましたが…。

せっかくなので生成AIに小説っぽい文章にしてもらおうかな?
とりあえず書いたとりとめのない文章に対して、どんな文章を作り上げてくれるのか…
かなり気になる!!!

ってことで、生成した文章が冒頭にある文章です。

今回は、生成AIにChatGPTを使用しています。
原文から2本の小説風の文章を生成し、
原文+小説風の文章2本を組み合わせて冒頭の文章を生成しています。

※ここで締めに悩んで止まった(笑)

***** 原文 ******************************************

2、3年、ノートを使わない生活を送ってみました。

感想というか、振り返ってみましたが…
無かったところで生活に支障は無かったなぁ。と、いう印象。

ただ、公開の有無に関わらず、ブログの投稿を書いたり、
毎日ブログを書こう!!って、思っていても書かない(描けない)日もあります。

稀に、ふと何かを思って、過去を遡ることがあるんだけれど…
そういった記録が残っていない日って、何があったのか?
何もなかったから書かなかったのか、
それとも何かあったけれど、書きたくなかったのか…
面倒くさくて何も書かなかったのか。

色々と考えてしまいます。

が、なんか、自分の過去を想像する謎の遊びが捗るわけです。

人間の脳みそは良くできている…

途切れる前後の日記(投稿)を読むと、当時のことをおぼろげながら思い出すんだよね。
ただ、無意識に脚色されていたり、都合のいい記憶に置き換わっていたり…
自分自身が気が付かない間に自分自身で色々していると思うんだけど。

ただ、過去の断片的に残された記録から、
過去の出来事を思い起こしたり、当時の感情を思い出したり。
楽しい事も辛い事、怒った事。色々な感情に向き合うことが出来ます。

そして、当時の自分では気が付かなかった新たな考え方や感情が出てくるかもしれないし。
当時の自分から少しでも成長しているかわかるかもしれない。
当時の自分の稚拙さに恥ずかしくなるかもしれない。
そういった事をしていると、ちょっと、面白い発見があるかもしれないね。


***** ChatGPTに小説風にしてもらった文章① *************************

ここ数年、ノートを使わない生活を送ってみた。最初は少しの不安があったものの、意外と生活に支障はなかった。むしろ、何かを記録することから解放されたような感覚さえあった。

 それでも、ブログには何かしら書いていた。書こうと思っても、書けない日がある。毎日ブログを書こうと決めても、どうしても指が動かない日がある。

 ある日、ふと過去の記録を遡りたくなった。しかし、そこには何も残っていなかった。何も書かなかった日は、何があったのだろう? 何もなかったのか? 何かあったけれど、書きたくなかったのか? それとも、ただ単に面倒だったのか?

 考えれば考えるほど、記憶の隙間に問いが生まれる。でも、その謎を想像する遊びが、案外楽しい。

 人間の脳はよくできている。  断片的に残された日記を読み返すと、忘れていたはずの出来事がぼんやりと浮かび上がってくる。ただ、それは本当にそのままの記憶なのだろうか。知らず知らずのうちに脚色され、都合の良い形に変えられているかもしれない。それでも、そこには確かに、自分自身が生きていた証がある。

 過去の記録を拾い集めることで、当時の感情が蘇る。楽しかったこと、辛かったこと、怒ったこと。そのすべてと、今の自分が向き合う。

 そして気づく。当時の自分には見えなかったものが、今なら見えること。少しだけ成長した自分がいること。時には、自分の未熟さに顔を覆いたくなることもあるけれど、それもまた、大切な発見なのだ。

 そうやって、時々振り返ることができるからこそ、日々の記録は面白い。そして、これから先も、自分の足跡をどこかに残していこうと思う。


***** ChatGPTに小説風にしてもらった文章② *************************

ノートを手放してから、もう二、三年が経つ。

最初は少しの違和感があった。
何かを書き留めたい衝動に駆られることもあったが、
時が経つにつれ、そうした思いも薄れていった。
振り返ってみても、特に支障はなかったな、というのが正直な感想だ。

ただ、ブログを書く習慣だけは続けた。
とはいえ、毎日書こうと思っても、実際に書かない日もある。
書こうとしても手が動かない日もあるし、そもそも書くことが思いつかない日もある。
それでも、時折ふとした瞬間に過去を遡りたくなることがある。

そんなとき、記録がない日のことを考える。
何もなかったから書かなかったのか、それとも何かあったけれど、書きたくなかったのか。
あるいは単に面倒くさくて書かなかったのか──。

記録がない過去を想像する。
それはある種、謎解きのようでもある。
頭の中に残る断片的な記憶を拾い集め、失われた時間を埋めようとする。
すると、人間の脳みそは実に都合よく働くことに気がつく。

途切れる前後の記録を読めば、おぼろげながらも当時の出来事が浮かび上がる。
しかし、それは完全に正確な記憶ではない。
思い出の中には、いつの間にか補正がかかり、
美しくなったり、逆に色褪せたりしている部分もあるのだ。

それでも、こうして記録を残すことには意味があるのだろう。
たとえ曖昧なものでも、思い出を繋ぎ留める手がかりとなる。
過去の自分を辿ることは、今の自分を知る手がかりでもあるのだから。


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